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2023.04.19 校長ブログ

はぎの通信 No.19(ぶち当たれ!)

 

はぎの通信 No.19 (R5. 4.19)

 

中越高等学校長 萩野 俊哉(はぎの・しゅんや)

 

「ぶち当たれ!」(Go For It!

 

 

 皆さんは野球が好きですか?最近はサッカーブームで、サッカーをする少年少女がとても増えてきましたが、昔は、というか、少なくとも私が「少年」だった頃(1960年代~70年代前半)は、こどもたち、特に少年たちのするスポーツといえば「野球」に決まっていました。

 小学校の時は、授業が終わると家にすっ飛んで帰ってランドセルを置いて、グローブを持って(持っている子は!)学校のグランドや近くの広場に行きます。すると、特に約束をしているわけではないのに、必ず何人かは同じようにグローブやバットやボールを持って集まっていました。ある程度集まったら、早速「グーパー」でチーム分け。即、試合の始まりです。当時はなんといっても、野球のうまいヤツがヒーローでした。女の子にもモテました。野球のうまいヤツは。

 

 

 

 さて、ちょっと前置きが長くなりましたが、昔、高校野球で甲子園を沸かせた選手に清原和博選手がいました。清原選手といえば私たちの世代以上では、彼の高校時代がまことに鮮烈な光を放っていました。大阪・PL学園高校出身。春と夏、合わせて5回甲子園に出場し、優勝2回、準優勝2回。通算13本のホームランを放ちました。PL学園時代は、かつて読売巨人軍や大リーグで頑張っていた桑田真澄投手と「KKコンビ」と呼ばれ、当時のPL学園高校は、高校野球史上最強のチームと評されています。

 

 1985年、彼の意中の球団である読売巨人軍は秋のドラフト会議で、当の清原選手ではなくチームメイトの桑田選手を1位指名。清原選手との交渉権を獲得したのはリーグの違う西武ライオンズでした。涙をのんでの西武入り。桑田選手が脚光を浴びる中、くやしさで唇をかみ締める姿が印象的でした。しかし、清原選手はその後発奮しました。入団1年目で打率3割4厘。打ったホームランは31本。見事その年の新人王をもぎ取ったのです。そして翌年には日本シリーズで巨人を倒して日本一になりました。そのときの様子を私もテレビで見ていましたが、清原選手のうれし涙に私も思わず胸がジーンと熱くなったことを覚えています。その後、彼は1996年秋にフリーエージェント制を利用して巨人軍に移籍。2002年の日本シリーズでは今度は古巣の西武ライオンズを倒して、巨人軍を日本一へと導きました。

 

 

 さて、そんな清原選手。数々の偉業を達成したわけですが、実はすでに彼は2つの日本記録を持っているのです。それは何だと思いますか?

 答えは、ひとつは実は彼は2,000個近くの三振を喫していて、引退した選手の中では「三振日本一」の記録保持者であるということです。もうひとつはデッドボール。なんと200個近くものデッドボールを受けているのです。これはもう何といっても日本一です。

 

 「三振日本一」そして「デッドボールを受けた数日本一」。このことは一体何を物語っているのでしょうか。そうです、何より投げられたボールに立ち向かっていくその気力と迫力。決して逃げない。勝負していく。その勝負師魂。これですよね。だから清原選手がバッターボックスに立つとあれだけ大きな声援が湧き上がり、そして、何かをやってくれるというわくわく感を感じさせてくれるのです。この「わくわく感」、それは私が小学生のとき野球の試合をしていて自分の番が来てバッターボックスに立ったときの気持ちと何だかよく似ているような気がします。私たちが少年だった時、野球をしていて相手から逃げようとしたり、小細工をしようとしたようなヤツらは自然とみんなからバカにされて、結局姿を消していきました。そんなもんです。何でも逃げずに挑みかかる。たとえその結果が「三振」に終わろうと、「デッドボール」に終わろうと、そんなことはどうでもいいのです。思いっきりやって、その結果は結果でしょうがない。いいときもあるし、悪い時もある。悪くったって絶対にクサらない。また相手の投げる全力投球のボールに挑みかかる。それしかないんじゃありませんか。

 

以上